esukaransio’s blog

アウトプット練習しようと始めました

病気のメリットをちゃんと見ようと思った。

病気について。

体の不調、持病がある。
慢性化しているそれらを見ていく。
それによるメリットがあるとしたら何か。


実は、過去何かの拍子に、自分が嫌いということを思ってしまうことが起きた。ショックと罪悪感をいだく。
その自分が嫌いな状態が恐怖で耐えられず、逃げたい。
病気という状態になって、それがあるから自分が嫌いだって事にして、自己否定感を自己ではなく病気の症状にしていた。
ちょっとこんがらがった表現になるけど。

病気の自分を作って、病気の自分が嫌いと言うことにしている。
あきらめたり、嫌いになっても仕方ないと思えて、変化しなくてもしかたないとか、自分が嫌いなことを直視しないでいられる。これが病気のメリット。
悲劇のヒロインぽいし、いろいろ浸れるのもメリット。

過去のパターンでずーっと病気の状態を作り上げているかんじ。
病気である動機付けに気がついたのは、病気の状態をどうにかしたいという気持ちがあるからなんだけど、病気でいるメリットを自分が選んでいるという状態を見ることになった。
じつは自分が望んでいるから病気の状態を見ている。



嫌いだって思った自分は、過去の瞬間にも等しい一部なのに。
自分が嫌いだという思考が生じたときあまりにショックだったんだろう。
その衝撃を握りしめてしまい(無意識だろう)、見ないように隠そうとすると余計に在ることを見ないように意識が自動的に働くし、繰り返しているんだろう。
見ないようにするって気になってしょうがないって事だもんなあ、疲れるよね。



自分の知らなかった一部分を見たときにそこをそのとき持っていた価値基準で否定的に捉えてしまったんだねえ。一部分が嫌だなってそのとき感じただけ。恐怖でそれを直視しないことにしたので、一部分が拡大して見えているかんじかな。
幻を意識し続ける恐怖。端から見るとコント。


病気の状態を見るときに湧き上がる感情とか、思考は抑圧する事が多い。
治らない、不満、怒り、悲しみ、不安、恐怖、嫌だ、不快だ、消したい、切り取りたい、などなどでてくるが、同時にそんなこと思っちゃダメだ、治るものも治らなくなる!いやだ、ダメだ。という感じになる。
どうせ治らない。なるようにしかならないという諦めも出てくる。
病気にそう思ってるようで、実は自分にそう思っていたんだよね。

癖で、自分の感じるものにダメ、とか、不安をかぶせて抑圧しようと働く思考の方が優位に立ちがちな自分がいる。
今回はじっと耐えて、ただ見て、抑圧する側にも、抑圧される側にも引っ張られそうになっても真ん中に戻るような感覚で自分にお問い合わせ。

自分の中に生じたもの湧いたもの、否定する無意味さ、否定するものは全部外側の価値観であること、あるものは在ることを静かに見たいなと思った。
過去の私が嫌った私の一部は否定してもそこにあった。
見たことないお花のようなもので見慣れなかったけど、変な価値観で汚いものとして処理しただけだった。
本当に嫌いなのかどうかは体の反応で分かる。
思い返すと、体の反応的にも嫌いじゃないから、価値基準から逸脱するので恐怖だったのだろう。そういうのを好きな自分がダメみたいな。
人と比べたり、大人の言うへんな社交辞令を真に受けた子ども時代だった。
見直していないままなので、変な評価基準が私の中で起動していた。
ああそうだったのね。ってかんじ。
嫌いって思ったことも、嫌って思ったことも、子どもだったんですから、しょうがないじゃない。持ってた価値基準がなんなのかさえ分からなかったのだから。
持っていた価値基準はいらないものだった。がらくただった。
手放してOK。
嫌って思って苦しかったなあ。自分を嫌いって思うのしんどかったなあ。


長いこと幻影を飼って、それを見てはいけないものと箱に詰め、奧にしまって、病気でラッピングして見えなくしておいた。
怖いものが出てくると思ったけど、開けてみたら幻だから、箱は空だった。悪夢から覚めたような。
みたいなお話になるかな。