esukaransio’s blog

アウトプット練習しようと始めました

セルフケアの誘導をやってみて

 

今日のZoomセルフケア誘導をしました。
私ともう一人が一緒にさとう式子宮セラピー養成講座受けた仲間を相手にやる機会を持ちました。
そのあと、フィードバックをいただいて、いろいろ考えることがありました。

★ 同じような身体への働きかけでも「〜してください」と伝えるのと、「〜します」と実況中継するように伝えるのとでは、受け取る感じが違ったということ。(私は「〜してください」と言う誘導になっていた。)

★ 今日の私の誘導は、物質的なからだだけにフォーカスするような誘導と、エネルギーや気の流れ・エーテル体等の、見えない部分のからだとのつながりが少なく、分離している感じがした。

(対照的に、今回のYさんの誘導や前回の私の誘導は、見えないエネルギーとのつながりが感じられるものだったから、より目立ったのだと思う。)

学びを共にした仲間なので、どっちが良いとか悪いという事ではないのはわかり、
違いが生じたのはなぜか落ち着いて考えられました。


・私は今日、「ちゃんと声を届けたい(前回、聞こえにくいと言われたから)」「言葉を聞き取ってもらわなくちゃ」ということに意識が向いていて、自分の身体の中で何が起きているか、あまり感じられていなかったように思います。

・今回の私の誘導には、目に見えない身体の働きや、内側と外側、めぐり、つながりなどへの言葉が少なかった。

それを聞いたとき、単純に「自分にはまだそこまで感じられないから、言えなかった」と思っていました。



でも、そこから自分の中を眺めていくと、

「見えない領域を本当に感じているの?」

「そんなこと言って、感じてないでしょ? 嘘だとばれるよ?」

「おこがましくない?」

「私なんかがそんなこと言っていいの?」

というモヤモヤの声がずーっとあったことに気づきました。



体も、みぞおちや肋骨あたりがぼんやり硬くなって、そのあたりがわーわー批判するようにしゃべり出すような……。

気やエネルギーの巡りに関与できるような言葉を言わなきゃな
っていうのは脳裏によぎってはいる。でも、振り返ってみると
呼吸も浅くなって(よく吸えないような感じ)。

前回、「違和感のあるところ、痛いところ、硬いところに触れて、そのメッセージを聞いてみましょう」みたいなこと言っているのに、今日はその言葉が出てこなかった。

もしかしたら、自分自身がその場所の「訴え」を聞くのを避けていたのかもしれません。


今まで、

「自分が本当に感じていることを、正確な言葉にする」

ということを大切にしていたように思います。

正直が良い、と。
大切な人に嘘はつきたくない!

(力みがあるし、過去の経験からくる、反動的な思いがあるような感覚もある。)

もちろん、それも大切ですけど。

でも、それだけではなくて、

Kさんが愛を持って投げかけてくれた、

「言葉でからだを振動させて、感じて、声で出す」ようなこともできる。
歌ってそうでしょうって。

という、私には発想できなかった世界観の話を聞いて、

は~~~~っそうかあってなって。
深いなあ、と。

 

その場では、私にはまだ遠いことで、できるかなあー?遠い未来とかよね。
まだまだよね。みたいな感じで聞いていたけど、じわじわ振り返りが効いてきて。

「まだ触れていない、まだ感じていない世界とつながる道を、言葉でみつける……」

できるんじゃないかと思いました。

身体の中には、今の自分が意識できていることだけがあるわけではない。

命の膨大な働きを、知識として知っているけど、感知していないところの方が大きい。

でも、その見えない働きと私は共にあるから生きているし、存在しているんだ……。

じゃあ、私の中には確かに存在している。

じゃあ、探したら体感も感触も微細かもだからむずかしいだろうけど、確実にあるんだから見つかるんじゃない?

探すために言葉を出してもいいじゃん。


しっくりこない言葉は、嘘とは違う。



「ああ、この言葉は今しっくりこないだけか?」

「じゃあ、この言葉の世界は?」

と。



素敵な世界――神秘的とされることや、奇跡とされる世界でもなんでもいい。
自分が見たい世界を感じるための、素敵な服(言葉)を試着する。

発してみる。

しっくりこなかったら変える。

試さなくちゃ、わからない。

試すことは、誠実じゃない! 嘘つき!
って責められることじゃない。
にあわないからはずかしいぞ!やめとけ!
(これは防衛するために無意識でやる回避行動の一つでした。これも自分を守りたいという愛情で。ん、で、からだが固まって教えてる・それいるかい?と。そこで話し合ってみたらこういう気づきになった)

すでにつながっているものでも、意識していなければ見えないことがある。


言葉にすることで、そのつながりが少し見えやすくなったり、そこに意識を向けてみることができる。

そして、実際にどう感じるかは、その時、その身体に任せる。

だから誘導する側が、自分が感じうるものだけをナビゲートするように決めるのではなく、

「こんな道もあるかもよ。ちょっと行ってみる?」

「この服、好きなんだけど、どう?」

くらいでもいいのかもしれない。


安心安全な場所で、そのままをさらけ出すことで、気づいたものは素敵だった。

今日のフィードバックが「できていなかったことを指摘された」というより、

自分がまだ知らない身体の世界への道を教えてもらった

ように感じました。


これ、やってみないと分からなかったことでした。


そして、いろんな人の誘導を受けてみるのも楽しそうだなと思いました。

同じ身体でも、人によって開く道が違う。



で、大事なことは、自分が感じないのも違和感も失敗と思うようなことも、劣っているでもないし、感受性がどうこうでもないし、そのときのからだの伝えたいことが、しっかりあるからそうなっているだけなんだ。

「どうしたの?」

「なにを伝えてるの?」

って問いかけておいて、そのときじゃなくても、タイミングが来たら出てくるのかもしれない。

安心しないと出てこられないから。

安心をつくる練習が、セルフケアなのか。

呼吸から入る人、骨や筋肉から入る人、イメージから入る人、声から入る人、「めぐり」や「つながり」から入る人。

「この言葉は私にはどう響くんだろう」

「この道を歩いてみたら、身体の中で何が起きるんだろう」

と、自分の身体で試してみる。

そうやっていろんな道を歩いてみたら、自分が誘導するときにも、

「正しい言葉を言わなくちゃ」ではなく、

「私はこんな世界観をかんじてみようかな?一緒にちょっと歩いてみない?」

と言えるようになるのかもしれない。

今日のフィードバックをきっかけに、セルフケアの誘導が少し違って見えてきました。

「身体を整えるための誘導」だけではなく、

身体と世界の、まだ見えていないつながりを体験してみるための誘導。

今日は、自分の中の「やいやい言う人」にも会えたし(笑)、

その人が「似合わないよ」「おこがましいよ」と言ってくれていたのも、私を守ろうとしていたんだなと思えました。

まだまだ試着中です。

いろんな言葉を着てみて、身体で確かめてみたいと思いました。

今日、フィードバックをくださったことに感謝とやれる場をいただいたことに感謝を込めて。

イライラを超えて:楽しくいたい希望と継続の力(AIさんに作ってもらったタイトル・・・壮大だなあ)

水面

日々なんかイライラしていて、お小言ばばあになっていて、自分にも周りにもイライラして疲れていた。

なんかイライラする自分は自分を無意識にダメ出しすると出てくる。
体がきつかったり。

後最近は子どもに反応を面白がられていることにも疲れている。
私がイラッとか、ちょっと心配するような些細なことをしてくる。(おやつの食べる場所を守らないとかのささいなやつ)約束を破るとか、暑いのにジャンバー脱がないで汗だくになっているとか。出したおやつに文句言うとか。
大きくなってきた証拠なんだけど、理解が追いつかなくてイライラしてしまう。
このイライラを相手にぶつけても余計にイライラする結果にしかならなくて。

そんな自分が嫌だあ~って否定するから疲れるのよね。


書き出して看て観よう!

私、イライラするんです。
子どもが大きくなってきて我を主張してくるのに、私に受け入れがたい何かがあり、イライラするんです。
心の奥には自分にもイライラする自分もいるんです。
体調が、子どもが、家族がとか、時間がとか、経験がとかいろいろな理由を元に何もできない自分をどうしたら良いか分からないで居る。
どうしたいのかが出てこない。
できない理由はいっぱい出てきて、やりがい感じたり生きがい感じたりできることは何なのかを模索できずにいる。
そんな自分をもどかしく思い、なんとかしたいとか、受け入れがたい私が居る。
こんな私ではダメだ~。
って思って居ることから目をそらしていたい。
そしてイライラする日常を現実化していたようだなあ。

否定する自分もちゃんと見ると軽くなるなあ。
そう思っているんですね。
と客観視したら、自分と自己否定の間に隙間ができて、風が通るような。
そこから、
そう思っていたなあと過去に感じる。




書いてみたらすっきり。


やってみることすらやってないからなあ。

目の前のことをとにかく心を込めてやること。
やってみたいから。
それをまず3日、3週間、3ヶ月とかを継続をしてみるかなあ。
ささいなことでもやりたいって思うことを感知したらすぐやってみよう。
それも継続をしてみたら良いかもなあ。
これがイライラをどうにかするためでも、ダメな自分を変えるためでもなくて、楽しくいたいっていう希望、好奇心から来ることを意識して行くことが大事だろうな。
どこに意識を向けてエネルギーを流すかはとっても大事だよね。

そんなことを思う。





ブログを消そうとして・・・

かもかわいい

ブログを書くことからなんとなく遠のき、書く意味もよく分からない状況です。
日々の葛藤も減ったというか・・・葛藤をどうにかしたいという抵抗が減ってきたかんじ。

モヤモヤを書こうという気がせず。
でもこの場があることがどうも気になっていて、ふと思い出して消そうかなあと思った。
消すにはどうしたら良いのかなとか調べたら退会処理すれば自動で消えるということだった。

で、

ああ簡単に消えるのかとほっとした。

消す前にちょっと書いた物をみたら・・・

過去の私がのたうっていることが書いてあった。
今でも同じようにイラッとして胸がつかえるようなムカムカが暴れるときもあることをおもう。

それで良かったし、それがなんだか思い出というか、分かるわ~という共感するあるある話を聞いているような感覚(自分の事なんだから共感が深い・・・面白い)&生きているなあって感じがした。

添えた写真は日常で私の世界に現れる、ちょっと心が緩む風景だった。
それもあってか、見返した自分がまたちょっと緩む感覚があった。
日々むかつくこと、苛つくことにとらわれる瞬間もありつつも、そんな自分を痛がりつつ受け止める日常。すぐ忘れて、混沌の中に消える前の感情が書いてある。
過去がなんだか微笑ましいような気さえする。
生きてきた時間の瞬間に連続性はないとかも聞くけども、今生きていること、生きてきた時間があることがなんだか愛おしくなってしまった。
なので、ブログをもうちょっとだけ置いておこうかなと思ってしまった。

表現意欲の失われたブログ

実がなる木はかわいいと思った。

 

アウトプットの練習をしようと始めたブログ。
しばらくやってたけど、文字での表現に意欲がなくなり。
なんでこういうことをやるのか疑問が出てきて、ブログから遠のき。深く考えるでもなく、ブログ書かなくても日々それなりにやってきた。(ノートに葛藤を書いて自分の本音を見たりはしてきた。)
で、自分と向き合う中で、大きな壁?自分はダメだという思い。RPGの中ボス敵のようなかんじで日常のイライラや落ち込む物事の影?奥に居るのが見え出す。
ブログも、そもそもは自分をよりよくすることや自分をどうにかせねばということから始めている。自覚はないけど。
私はダメだという意識から、やり始めたことだから苦しくなってくる。私はダメだを強く認識することが目的となるから。だから続かなかったんだな。と今、気がついた。

そういう風に何かダメなところからよりよい方にとか、コントロールしようとしながらも違う方へ流れ着いて今がある。
なるようにしかならないのにもがくんだ。
そんな自分で居るのは疲れるけど、そのようにでしか生きられなかったのだから。愛おしい。気がついたらすこしコントロールを辞めて流れに乗っている自分の今を楽しめたら良いなと思った。


 最近はからだのこと體と漢字では書いてきた昔のことを知りうわ~素敵と思った。
いわゆる体は死体を表すときしか使わなかったしそう言う意味の文字という話を聞いて、戦後教育をいじったGHQはすげえなと思った。
でも今そう言う話がいろんな場面で見えてきて、腹が立っていたけど、亡くして初めてありがたさや偉大さに気がつく事もあるなって思う。
当たり前に使ってたら知らない文字の意味、や表記するだけで発する見えないエネルギーにまで思いが及ぶような文字のすごさ。をちょっと感じた。ふつーに生きていて不つーっと思って見ているもの、起こる事象のすべて、それを経験し色々思ったり、感じたりできる自分ってめっちゃ貴重いられて超絶幸運なんだよな。自覚ないのが残念。自覚できたら喜びだらけになる。どっちでも良いんだよねえ。選べるんだよねえ。
贅沢。
めっちゃしょうもないことを喜んでみようと思う。嫌いだと思って居る食器洗いに向き合ってみよう。

自己一致 いまここ

自己一致とか、今ここに居るとかってまーったく違った捉え方で生きてきたなとふと思った。

今自分が感じていることをそのまま内側の自分が眺めて、否定も評価もしない状態で居る感じがなんとなく今ここって感じがしている。

以前は、脳内のガチャガチャ(矛盾と一貫性のなさと脈絡がない思考?つぶやき?みたいなもの)自分へのダメ出しがループ再生で勝手に流れていて、それに抵抗したり、反発して、疲れてた。
脳内での自動再生で、録音の物なので、突っ込んでも変わらないし、言い返しても変わらないのだ!反発に疲れて寝込む・・・をやってきた。
ああ!これは録音再生だった!とある日気がついたとき停止ボタンがあることに気がつく。つけっぱなしだった!って。
自分好みじゃない曲がかかってる店内で長々と過ごす感じ。疲れるよね。

自分の家で、そこに好みでない音楽をかけて、不機嫌になってる状況だったみたい。
はっとして、まずは好みでない感じの音楽がどこからきこえてくるか把握、どう不快なのかしっかり見てみたら、止まるのだ。自分で再生ボタンを握っているから。無意識なので握ってる事はわかんなかったけど。

再生ボタンは感情の中にあって、(今の私にはその多くが)不快感のなかにある。

以下私の中にある自動再生ミックスリスト。


~人として~編

体調が悪いのが嫌だ、役に立たない自分が情けない、存在価値がない。

怠惰な自分は隠したい、居心地が悪い。役立たずがばれる。叱られる。こわい。

楽しい時間は続かない。

嫌なことを乗り越えたら幸せになる。
お金は苦労と引き換えだ。

お金は人を狂わせる。


~性別を意識しよう~編

女は損だ。
美しくない汚い私で恥ずかしい。
エロは汚い。恥ずかしい。

セックスレスはいけないことだ。

心地よくないとダメだ。嫌だ。不幸がやってくる。不運になる。


大人として~親として~編

お母さんがしっかりしないと子どもがダメになる。病気になる。

食事を無添加、自然なもの、旬の物、無農薬が良くて、子どもにはそれをできるだけ与えないと病気になる、育ちが悪い、虫歯が増える、弱くなる、
・・・子どもが苦しむ事を観るのが怖い。

死ぬことは悪いこと、病気は悪いこと怖いこと。子どもをそう言う目に遭わせないようにしないといけない。

などなどあって、この中のどれかが流れ出すと感情が動き出して、怖くなって、変な行動をとる。反応するってやつ。反射といえるもの。

このミックスリストが再生されると、私はだいたい、反発する。
怒る。
ふきげんなまま黙る。
相手を突き放す。
モヤモヤを我慢して見ないふりする。
我慢できなくなって泣く。散歩に怒りながら出て行く。

取り合えずそれもそうなる自分をみながら、自己嫌悪もみながら流れに身を任せるしかないんだけど。
ここまでで終わるのはもったいないことに気がつきだした今日この頃。


黙ったまま、しかたないと諦めたり投げ出したときの方が、やっかいなことが多い。そして繰り返し同じようなことが起こる。

ざわつきが止まらなくなって不安が増して考えの中に閉じこもって自分を正当化したり、被害者になってみたりして自分を納得させる?結論づけて仕方ない。とそのままでいつづけるループから出ないから。
だって怖いことは避けなくちゃ逃げなくちゃという反応が出続けるから。
不快なループから出られない。
でも疲れ果てると出られる設定みたい。やさしい。


恐怖感や不安感を否定せずに、ふあんだよね、怖いねって自分で自分の不快感をただみるだけで自動ループがいったん止まる。
観るというか、いろいろ逃げ続け、疲れ果てた先に不安が恐怖があるなって感じてしまう。
逃げられない。疲れすぎて。ループの外に出る感覚が垣間見える。
放心というか、もうだめだ~っていう開放感?
凝り固まった体が動かなくなって寝るしかなくなく、つらいけどそれが良かった。


不快なものみるって自分を知るのにとっても大事。
そこで、怖いって思ってる自分を否定しない。否定したがってる気持ちもそのままにみる。
体が動かなくなる前に、体もどういう感じか見れるとなお良い。肩が上がって首がすくまって、眉間にしわ寄ったり頭あたりに意識があって足の存在が感じられなかったりとかね。
きがついたらさすったり、手を当てたり、暖めて緩めるのもだいぶいい。
そのときに自分を大事にしてるなっていう感覚が沸いて自分で自分に優しくしたなって思えてなんだか気分が良くなるような気がする。
脳内の自動再生が止まっていて、今ここに戻ってこられて、日常を凪いでいる自分と過ごす。とたんに、自動再生の中から出てるからか、よりよく景色が見えだして、普段目にしても気がつかなかった嬉しいこと、美しい物に喜べるみたいだ。

アウトプットの練習でしかない文章だ・・・。




ちゃんと生きなくちゃ



『ちゃんと生きなくちゃ』ちゃんとしなさい!と追い立てられる感覚が表層に上がってきていて、イラッとする。
というか日常のあらゆる場面で自分を査定してきて、疲れさせる。
評価するがわも、されるがわもどっちも自分なのに、自分じゃない感覚。
ちゃんとできてるかの評価基準も曖昧で、幼少期の自分が見ているような、目線からの母のやっていたこと祖母のやっていたこと、言ってたことがなんとなくイメージされる。


日常過ごしている自分は、それに対する反抗心?どうせできない私みたいないじけモードでいるかんじで、やりたいことでもないし、あえてやれない感じにしているような感覚もあり、とっても疲れる。
そこを見ている自分が最近出てきて、やりたいことを力を抜いてやってる時間もある。

ちゃんとしてない人を見るとイライラするし、駄々こねる子どもに腹を立てる自分に腹が立つ。そんな自分に苦しんでたけど、『ちゃんと』の呪縛が今顕著に見えてきて、ああ~そう言う世界に私が居るんだなって見ている。


個性というか、私の持って生まれた特性。

私は役立たずで、周りの重荷で、ダメなんだ。

というシナリオというか志向というか、そんなテーマソングの中に生きているような感じ。そこに触れると痛いのでなんとか回避したくて戦ったり、希望を諦めたりしてきた。


最近なんかちょっと変かな?他の歌でも良くないか?テーマソングも要らないかもよ。という気がしている。
今存在していることがもうすべてで一人でどう頑張ってもここに存在していない事実に思いを及ばせると、私はダメだを隠そうとのたうち回ることもなんか変だと気がついて変なことしてるなーと力が抜ける。
ちゃんと生きるを問い直すと、
私が私のことを丁寧に扱うこと。自分の中に沸き上がる物を見て看て観てそのエネルギーとともに行動していきたいなあと思った。
ちゃんとしなさいって言う呪縛に引っかかったのではなく、そういう呪縛を生まれながらもっていた自分に気がついてきたぞという話。
すべては誰のせいでもなくて、自分の人生の設定に気がついておお!そうか!だからか!となり、で、どうしたい?と自分の中から湧いてくる希望を観て生きたいなあという気持ちになる。

今を生きること

過去にとらわれず、今の感覚・直感を大切に生きること=今を生きる
という言葉をキャッチ。
今日ホットケーキたべよう!って思って食べてたら、小さい頃の思い出に浸っていたりする。

味覚や食べるものも過去の事・感覚をなぞるようにしてたりすることに気がついた。

一日中がそんな感じなんだよねえ。
洗濯してても、過去からの感覚で面倒くさいとか・茶碗洗い嫌いだなとかもぜーんぶ過去の記憶から。
現実には何もしてなくて、行動する前から気が重いのも過去の何かから来てたりする。余計に疲れてしまうよね。
記憶力を制御できてないんだなあ。制御できないのかな?
観察して、自動的に引き出された記憶からのもなのか、実体を伴う物なのかちゃんと見て生きたい。要らない自動反応はストップして、実際に体を使って今やってる事・感じていること体感覚をみて生きたいもんだ。
記憶の中・妄想の中で生きてる自分を自覚するところからなんだけど。妄想ばっかりだ。嫌なこともぜーんぶ実体が今にないことばっかり。ぼーっとしてるとそうなっている。何も見てない・聞いてない・じぶんのなかの何かをぐるぐる見ている。
そうなんだなあ。っていうだけでいい。
私の中で自己一致ていうのは、評価のないこと。思ったこと・感じたことを細かくそうなんだなと自覚すること。そこに理想と比べて内側で無意識にこんなじゃダメだとか思うところで止まると、体調が悪くなる・・・。繰り返して思うのはそこで止まるなって事だった。
こんなじゃダメって思ったなあ・・・っていうのもそうなんだなって見ていく。

映えスイーツってやつ(美味しかった)





で、内側を見ながら外側のこと、家事だったりの物事や、周りの人・家族との関わりだったりをできるだけ事実をそのまま見られるようになりたいもんだと思う。観たことのない世界が広がっている予感しかない。観たことないからね。
ニュースとか情報も感情が揺さぶられてしまうし疲れる・よくできてるなと思う。誰かのビジョンを見せられるけど実体験したような気分になったりするから危ないよなあ。私の周りにあることから感じられる物をすっ飛ばして感情を持って行かれるんだから、冷静に考えるとミサイルみたい。

良いこと7割悪いこと3割在るのに悪いこと注目するとそれしか見えない世界が広がり出す。どう生きたいのか、どこを見て生きるのか大事にしたいな。

わたしは、周りに広がる水が蛇口から出ること、風呂も入れる、料理もできること、食べられる歯が在ること、手も足も動くこと、あれが嫌だ・これ嫌だとか少々言っても大丈夫な環境にいること、家族が居ること、ふとんで寝れる、家がある、いっぱい在る物に幸せをもらっていること、体だって細胞一つ腸管の動き心臓・血の巡り・血液さえ自分で作っている物はない、息も無意識でもできてること存在していることもじつは自分では何もしていないという。そんなあふれんばかりの与えられている見えない力・愛というものなんだろう・・・そういうものを見て楽しんで生きていきたい。
体がおしまいの日に、あー楽しかった。痛いことも苦しいことも感じ方次第で楽しかったって言えることを学びつつ、のたうつ日もあるかもだけど、何を見て生きるか大事にしようと思う。