esukaransio’s blog

アウトプット練習しようと始めました

ブログを消そうとして・・・

かもかわいい

ブログを書くことからなんとなく遠のき、書く意味もよく分からない状況です。
日々の葛藤も減ったというか・・・葛藤をどうにかしたいという抵抗が減ってきたかんじ。

モヤモヤを書こうという気がせず。
でもこの場があることがどうも気になっていて、ふと思い出して消そうかなあと思った。
消すにはどうしたら良いのかなとか調べたら退会処理すれば自動で消えるということだった。

で、

ああ簡単に消えるのかとほっとした。

消す前にちょっと書いた物をみたら・・・

過去の私がのたうっていることが書いてあった。
今でも同じようにイラッとして胸がつかえるようなムカムカが暴れるときもあることをおもう。

それで良かったし、それがなんだか思い出というか、分かるわ~という共感するあるある話を聞いているような感覚(自分の事なんだから共感が深い・・・面白い)&生きているなあって感じがした。

添えた写真は日常で私の世界に現れる、ちょっと心が緩む風景だった。
それもあってか、見返した自分がまたちょっと緩む感覚があった。
日々むかつくこと、苛つくことにとらわれる瞬間もありつつも、そんな自分を痛がりつつ受け止める日常。すぐ忘れて、混沌の中に消える前の感情が書いてある。
過去がなんだか微笑ましいような気さえする。
生きてきた時間の瞬間に連続性はないとかも聞くけども、今生きていること、生きてきた時間があることがなんだか愛おしくなってしまった。
なので、ブログをもうちょっとだけ置いておこうかなと思ってしまった。

表現意欲の失われたブログ

実がなる木はかわいいと思った。

 

アウトプットの練習をしようと始めたブログ。
しばらくやってたけど、文字での表現に意欲がなくなり。
なんでこういうことをやるのか疑問が出てきて、ブログから遠のき。深く考えるでもなく、ブログ書かなくても日々それなりにやってきた。(ノートに葛藤を書いて自分の本音を見たりはしてきた。)
で、自分と向き合う中で、大きな壁?自分はダメだという思い。RPGの中ボス敵のようなかんじで日常のイライラや落ち込む物事の影?奥に居るのが見え出す。
ブログも、そもそもは自分をよりよくすることや自分をどうにかせねばということから始めている。自覚はないけど。
私はダメだという意識から、やり始めたことだから苦しくなってくる。私はダメだを強く認識することが目的となるから。だから続かなかったんだな。と今、気がついた。

そういう風に何かダメなところからよりよい方にとか、コントロールしようとしながらも違う方へ流れ着いて今がある。
なるようにしかならないのにもがくんだ。
そんな自分で居るのは疲れるけど、そのようにでしか生きられなかったのだから。愛おしい。気がついたらすこしコントロールを辞めて流れに乗っている自分の今を楽しめたら良いなと思った。


 最近はからだのこと體と漢字では書いてきた昔のことを知りうわ~素敵と思った。
いわゆる体は死体を表すときしか使わなかったしそう言う意味の文字という話を聞いて、戦後教育をいじったGHQはすげえなと思った。
でも今そう言う話がいろんな場面で見えてきて、腹が立っていたけど、亡くして初めてありがたさや偉大さに気がつく事もあるなって思う。
当たり前に使ってたら知らない文字の意味、や表記するだけで発する見えないエネルギーにまで思いが及ぶような文字のすごさ。をちょっと感じた。ふつーに生きていて不つーっと思って見ているもの、起こる事象のすべて、それを経験し色々思ったり、感じたりできる自分ってめっちゃ貴重いられて超絶幸運なんだよな。自覚ないのが残念。自覚できたら喜びだらけになる。どっちでも良いんだよねえ。選べるんだよねえ。
贅沢。
めっちゃしょうもないことを喜んでみようと思う。嫌いだと思って居る食器洗いに向き合ってみよう。

自己一致 いまここ

自己一致とか、今ここに居るとかってまーったく違った捉え方で生きてきたなとふと思った。

今自分が感じていることをそのまま内側の自分が眺めて、否定も評価もしない状態で居る感じがなんとなく今ここって感じがしている。

以前は、脳内のガチャガチャ(矛盾と一貫性のなさと脈絡がない思考?つぶやき?みたいなもの)自分へのダメ出しがループ再生で勝手に流れていて、それに抵抗したり、反発して、疲れてた。
脳内での自動再生で、録音の物なので、突っ込んでも変わらないし、言い返しても変わらないのだ!反発に疲れて寝込む・・・をやってきた。
ああ!これは録音再生だった!とある日気がついたとき停止ボタンがあることに気がつく。つけっぱなしだった!って。
自分好みじゃない曲がかかってる店内で長々と過ごす感じ。疲れるよね。

自分の家で、そこに好みでない音楽をかけて、不機嫌になってる状況だったみたい。
はっとして、まずは好みでない感じの音楽がどこからきこえてくるか把握、どう不快なのかしっかり見てみたら、止まるのだ。自分で再生ボタンを握っているから。無意識なので握ってる事はわかんなかったけど。

再生ボタンは感情の中にあって、(今の私にはその多くが)不快感のなかにある。

以下私の中にある自動再生ミックスリスト。


~人として~編

体調が悪いのが嫌だ、役に立たない自分が情けない、存在価値がない。

怠惰な自分は隠したい、居心地が悪い。役立たずがばれる。叱られる。こわい。

楽しい時間は続かない。

嫌なことを乗り越えたら幸せになる。
お金は苦労と引き換えだ。

お金は人を狂わせる。


~性別を意識しよう~編

女は損だ。
美しくない汚い私で恥ずかしい。
エロは汚い。恥ずかしい。

セックスレスはいけないことだ。

心地よくないとダメだ。嫌だ。不幸がやってくる。不運になる。


大人として~親として~編

お母さんがしっかりしないと子どもがダメになる。病気になる。

食事を無添加、自然なもの、旬の物、無農薬が良くて、子どもにはそれをできるだけ与えないと病気になる、育ちが悪い、虫歯が増える、弱くなる、
・・・子どもが苦しむ事を観るのが怖い。

死ぬことは悪いこと、病気は悪いこと怖いこと。子どもをそう言う目に遭わせないようにしないといけない。

などなどあって、この中のどれかが流れ出すと感情が動き出して、怖くなって、変な行動をとる。反応するってやつ。反射といえるもの。

このミックスリストが再生されると、私はだいたい、反発する。
怒る。
ふきげんなまま黙る。
相手を突き放す。
モヤモヤを我慢して見ないふりする。
我慢できなくなって泣く。散歩に怒りながら出て行く。

取り合えずそれもそうなる自分をみながら、自己嫌悪もみながら流れに身を任せるしかないんだけど。
ここまでで終わるのはもったいないことに気がつきだした今日この頃。


黙ったまま、しかたないと諦めたり投げ出したときの方が、やっかいなことが多い。そして繰り返し同じようなことが起こる。

ざわつきが止まらなくなって不安が増して考えの中に閉じこもって自分を正当化したり、被害者になってみたりして自分を納得させる?結論づけて仕方ない。とそのままでいつづけるループから出ないから。
だって怖いことは避けなくちゃ逃げなくちゃという反応が出続けるから。
不快なループから出られない。
でも疲れ果てると出られる設定みたい。やさしい。


恐怖感や不安感を否定せずに、ふあんだよね、怖いねって自分で自分の不快感をただみるだけで自動ループがいったん止まる。
観るというか、いろいろ逃げ続け、疲れ果てた先に不安が恐怖があるなって感じてしまう。
逃げられない。疲れすぎて。ループの外に出る感覚が垣間見える。
放心というか、もうだめだ~っていう開放感?
凝り固まった体が動かなくなって寝るしかなくなく、つらいけどそれが良かった。


不快なものみるって自分を知るのにとっても大事。
そこで、怖いって思ってる自分を否定しない。否定したがってる気持ちもそのままにみる。
体が動かなくなる前に、体もどういう感じか見れるとなお良い。肩が上がって首がすくまって、眉間にしわ寄ったり頭あたりに意識があって足の存在が感じられなかったりとかね。
きがついたらさすったり、手を当てたり、暖めて緩めるのもだいぶいい。
そのときに自分を大事にしてるなっていう感覚が沸いて自分で自分に優しくしたなって思えてなんだか気分が良くなるような気がする。
脳内の自動再生が止まっていて、今ここに戻ってこられて、日常を凪いでいる自分と過ごす。とたんに、自動再生の中から出てるからか、よりよく景色が見えだして、普段目にしても気がつかなかった嬉しいこと、美しい物に喜べるみたいだ。

アウトプットの練習でしかない文章だ・・・。




ちゃんと生きなくちゃ



『ちゃんと生きなくちゃ』ちゃんとしなさい!と追い立てられる感覚が表層に上がってきていて、イラッとする。
というか日常のあらゆる場面で自分を査定してきて、疲れさせる。
評価するがわも、されるがわもどっちも自分なのに、自分じゃない感覚。
ちゃんとできてるかの評価基準も曖昧で、幼少期の自分が見ているような、目線からの母のやっていたこと祖母のやっていたこと、言ってたことがなんとなくイメージされる。


日常過ごしている自分は、それに対する反抗心?どうせできない私みたいないじけモードでいるかんじで、やりたいことでもないし、あえてやれない感じにしているような感覚もあり、とっても疲れる。
そこを見ている自分が最近出てきて、やりたいことを力を抜いてやってる時間もある。

ちゃんとしてない人を見るとイライラするし、駄々こねる子どもに腹を立てる自分に腹が立つ。そんな自分に苦しんでたけど、『ちゃんと』の呪縛が今顕著に見えてきて、ああ~そう言う世界に私が居るんだなって見ている。


個性というか、私の持って生まれた特性。

私は役立たずで、周りの重荷で、ダメなんだ。

というシナリオというか志向というか、そんなテーマソングの中に生きているような感じ。そこに触れると痛いのでなんとか回避したくて戦ったり、希望を諦めたりしてきた。


最近なんかちょっと変かな?他の歌でも良くないか?テーマソングも要らないかもよ。という気がしている。
今存在していることがもうすべてで一人でどう頑張ってもここに存在していない事実に思いを及ばせると、私はダメだを隠そうとのたうち回ることもなんか変だと気がついて変なことしてるなーと力が抜ける。
ちゃんと生きるを問い直すと、
私が私のことを丁寧に扱うこと。自分の中に沸き上がる物を見て看て観てそのエネルギーとともに行動していきたいなあと思った。
ちゃんとしなさいって言う呪縛に引っかかったのではなく、そういう呪縛を生まれながらもっていた自分に気がついてきたぞという話。
すべては誰のせいでもなくて、自分の人生の設定に気がついておお!そうか!だからか!となり、で、どうしたい?と自分の中から湧いてくる希望を観て生きたいなあという気持ちになる。

今を生きること

過去にとらわれず、今の感覚・直感を大切に生きること=今を生きる
という言葉をキャッチ。
今日ホットケーキたべよう!って思って食べてたら、小さい頃の思い出に浸っていたりする。

味覚や食べるものも過去の事・感覚をなぞるようにしてたりすることに気がついた。

一日中がそんな感じなんだよねえ。
洗濯してても、過去からの感覚で面倒くさいとか・茶碗洗い嫌いだなとかもぜーんぶ過去の記憶から。
現実には何もしてなくて、行動する前から気が重いのも過去の何かから来てたりする。余計に疲れてしまうよね。
記憶力を制御できてないんだなあ。制御できないのかな?
観察して、自動的に引き出された記憶からのもなのか、実体を伴う物なのかちゃんと見て生きたい。要らない自動反応はストップして、実際に体を使って今やってる事・感じていること体感覚をみて生きたいもんだ。
記憶の中・妄想の中で生きてる自分を自覚するところからなんだけど。妄想ばっかりだ。嫌なこともぜーんぶ実体が今にないことばっかり。ぼーっとしてるとそうなっている。何も見てない・聞いてない・じぶんのなかの何かをぐるぐる見ている。
そうなんだなあ。っていうだけでいい。
私の中で自己一致ていうのは、評価のないこと。思ったこと・感じたことを細かくそうなんだなと自覚すること。そこに理想と比べて内側で無意識にこんなじゃダメだとか思うところで止まると、体調が悪くなる・・・。繰り返して思うのはそこで止まるなって事だった。
こんなじゃダメって思ったなあ・・・っていうのもそうなんだなって見ていく。

映えスイーツってやつ(美味しかった)





で、内側を見ながら外側のこと、家事だったりの物事や、周りの人・家族との関わりだったりをできるだけ事実をそのまま見られるようになりたいもんだと思う。観たことのない世界が広がっている予感しかない。観たことないからね。
ニュースとか情報も感情が揺さぶられてしまうし疲れる・よくできてるなと思う。誰かのビジョンを見せられるけど実体験したような気分になったりするから危ないよなあ。私の周りにあることから感じられる物をすっ飛ばして感情を持って行かれるんだから、冷静に考えるとミサイルみたい。

良いこと7割悪いこと3割在るのに悪いこと注目するとそれしか見えない世界が広がり出す。どう生きたいのか、どこを見て生きるのか大事にしたいな。

わたしは、周りに広がる水が蛇口から出ること、風呂も入れる、料理もできること、食べられる歯が在ること、手も足も動くこと、あれが嫌だ・これ嫌だとか少々言っても大丈夫な環境にいること、家族が居ること、ふとんで寝れる、家がある、いっぱい在る物に幸せをもらっていること、体だって細胞一つ腸管の動き心臓・血の巡り・血液さえ自分で作っている物はない、息も無意識でもできてること存在していることもじつは自分では何もしていないという。そんなあふれんばかりの与えられている見えない力・愛というものなんだろう・・・そういうものを見て楽しんで生きていきたい。
体がおしまいの日に、あー楽しかった。痛いことも苦しいことも感じ方次第で楽しかったって言えることを学びつつ、のたうつ日もあるかもだけど、何を見て生きるか大事にしようと思う。

あるがままを見る意識が変化を連れてくる。感謝もわいてくる。

最近意識していること。
在る物をそのまま見る。

陰陽の話とか触れることが心地よくて、学びたいなあと思って居るからだろう。

苦しいとき、うまくいかないときは陽のこと、つまり在ることにフォーカスを向けて見ること、そして感謝を感じてみる練習の話を聞いた。感謝ノートとかの話とか。
これは練習なんだということを聞いてやってみたいなと思った。

でやってみている。


縁あって、去年ストレスクリアを12回受けたことで、自分との対話を初めて経験することができた。自分自身で気持ちを丁寧に見ていくことは人生で初だった。
自己不明状態だった自分の、散らばってる感情・事象を口から出して、自分を受け止める経験は体感覚を伴ったことで情緒が落ち着いていった。
見過ごしてきた陰のことを、言葉にして、文字にして陽に転じさせていくことになったんだろう。

そこから感謝がわいてきて、すべてがあるがままで良かった、という流れになるのを何度も体験できた。すべてが繋がっていて、循環し、存在しているすごさに思いが向いていく。自分がその中に存在している感覚がでてきて、生きてる実感もでてきた。

分からなくともどうありたいかは自分の中に存在しているのも感じた。

でも、終了して時が経つと、日々の中で忘れていくことも感じる。

なので、最近在ることにフォーカスすると、忘れていた感覚が呼び覚まされ、良い感じ。体をケアするのも陽にアプローチするから良いんだなと実感する。

神社のご神体の鏡の意味とかが沁みてくる。
自分の在り方をちゃんと見ることが大事だなと。
そのために生きてる。生きたいように生きてる。

もやがかかるときこそチャンス。

あるがままを思考を使って分類して見る。

もやってることを
事実と思い(妄想・感情)と情報とに分類して見る。

結果。自分は過去との比較とか、思い癖とか不安心配症とか、90%以上妄想・思って居ること囚われて生きていることが自覚できる。

で、ここでそうしたいのかどうかを自問することができる。

不安ばっかりを見て生きたくないと出る。
しかーし!
でもやりたいことわかんないし!! 

といらだつ気持ちがあってイライラしてそれ以上思考も問いかけも続かなかった。

それすらそうなる自分をみていく。

で、毎度のごとくの体調を崩す。見たくないんだろう。体が出してくる。
体調を崩しながらもぐるぐるやりながらも、痛みをみる。思いを見る。
だんだん見えてくる。
じぶんの持ってる、フィルターが。
今回はフィルター越しに現実を見ているのが体調悪いときはよく見えてきた。

 

私のお気に入りの人生動画フィルター
題名 ~ちっぽけな汚い私・生きててごめん~
虚弱体質でダメで、人に負担をかける汚い存在。こんな自分がこの世界に生きさせてもらってすみません・・・・ていう題名のドラマ。
痛みに酔い、被害者意識とともに加害者意識を持ち、罪悪感を抱えながら、卑屈になって、守られた範囲で、悩みながらもぬるくだらだら生きるドキュメント。もはやコントに近いかも。

今回気がついたのは、このドラマが映画でもTVでもない。家庭用カメラで撮ったかんじの自分で楽しむ趣味の動画っぽいクオリティのやつになっていた。
でも、これって成長だな。とかんじた。
むかしは舞台っぽいかんじだった。でそこに主人公として入り込んで、感情いっぱい、オーバーな演技で舞台にスポットライト浴びて臨場感たっぷり感じながら、舞台に立ってた。
けど、今回は小さい画面で見る動画のイメージになって。没入感が減ってた。

媒体や規模感は変わってきたけど、何度も繰り返して、映して生きているのがわかった。
これに合う事象・雰囲気・BGMばっかりが自分の脳内編集室にあって、登場人物は飽きないように変わるんだが。見飽きた感覚がでてきている。
またこれじゃん!といいながらもみちゃうのよねーという感覚。趣味。楽しんでたんだな。渦中はまあ痛かったしきつかったけど、見えかたが変化してるからか、気分は軽かった。



競争し、比較し、評価を気にして、良くなるためとか、欠点を隠すとか、長所を伸ばすとか、そう言う方面に教育もされてきて、それを真に受けて。迷ってきた~
誰の責任でもない良い悪いもない。
痛みはあったけど、痛かったなあ、ただそれでいいのだ。
それが今に繋がっているから。

 

体が冷えて固まって色々不調が強くなって動けない日が出てきて。それでも人に迷惑をかけないようにとか、役に立たないとダメだ、このままではまずいというベクトルでしか自分を見れない。成長しなくちゃという焦りしかなかった。そんな過去だった。
で、もがいた結果今があって。すべてそれでよかった。
バカボンのパパの言葉のすごさが今沁みるなあ。それでいいのだ~




体調が戻って思うことは、
好きで見てたなあって。どっぷり嵌ってきたけど、舞台設定を自覚したから、ああ、これ癖だな。フィルターつかってるなという自覚がじわじわ出てきている。

色々切り替えの時期なのかもな。
ドラマのフィルターを超えて、演技プラン・癖を超えて、素の自分が楽しんで生きたいな。
力みはなくそう思えるようになってきてなんだか楽だし楽しみかも。

わー書き散らしたなあ。

 




 

くやしさからの和多志

任天堂スイッチで、一つだけやるゲームで、家族と対戦してコテンパンに負ける。
最初はゲームが楽しいのに、負け続けると、悔しくて胸が苦しくなって、信じられないくらい怒り?惨めさ?いじける?感じがワーッっと内側に湧いてくる。
苦しくて、でもゲーム。画面の中での出来事。
なのにこんなに荒ぶる感情。自己卑下。時間が経って、冷静にみると、変な感じがしてくる。
最中は、くそ~勝ちたい!で、勝ったとして、相手が同じようにいじけてきたり不機嫌になると、怖い。嫌な気分も感じる。
何がしたいんだろうか。
と感じる一幕がある。
自分を馬鹿だと思い込んでる感じがあって、一方でそれを自分でバカを認めたくない感じがする。
最近はいじける場面をよく経験する。
いじける子どもに感情が揺さぶられて怒ったり、自分がいじけるばめんとか。今いじけモードに入った。みたいに感じるけど、あらぶり出す感情に飲まれてしまう感覚。




勝ちたいとか、まけたくないとか、くやしいとか、本音はたぶんどーでも良い。
パズルみたいなゲームなんだけど、それをうまくはめて行くことが、相手と競うことで楽しいんだけど。楽しいだけでいいんだけど。勝敗の一瞬だけで感情は済ませば良いんだけど、悔しさは特に持続する。なんなら、自分が馬鹿なんじゃないか、うまくできなかったところを悔しいとか、こんどこそ! とか色々火に油が注がれる何かが沸いてくる。

それもただ見る、苦しさも逃げたさも、見るしかないんだけど、相手を責めたり、自分を装ったり(平静に振る舞おうとしたり)といろいろやってしまうのも、ただ見るしかないんだけど、見たくなくて、なんでこんなことしてしまうのか?こういう状態になるのか?とか内面でぐるぐるとしそうになる。ていうかしてしまう。
でもほんとうは、これが、ぐるぐると同じところを回る原因なんだろうな。理由を探して自分の感情に目を向けないようにする。

嫌な感情がわくとき、それに巻き込まれていろいろやりたくなる。
嫌な感情がわいた。胸がくるしい。くいしばってる。地団駄踏みたくなってる。暴れたい。恥ずかしい。子どもっぽい。相手にむかつく。きいいいいーーーーっ。おさまらない。やけぐいしたい。というふうにボルテージを上げていく。

子どもがいじけモードに入るとみていられないのが多分答えなんだろう。
本音はいじける自分も受け止めてほしいのだ。
でもできない!ってなっている。
自分の弱さを認めると怖いから。
怖かろうが弱いと感じる部分は消えないし在るのにね。ある物はあるとみる。感じている物はそう感じるなあ。以上。
でしかない。

私の中には本当にいろんな私が居ることをかんじる。
昔の言葉に和多志ということばで、現在よく使うところの『私』を表してたと聞いたことがある。
本当にそうだと感じる。
いろんな感情や気持ち、考え、忖度?無意識?などなどの合わさった存在が本当にここに居るなって思う。
それを認識している物、和を見ている存在がいること。和を見ている存在であれることがふえるとどんなかなあ。
冷めそうな感じがして、ちょっとな?とか思ってる。それって本心かな。
和多志の存在を少しずつみてみたいな。どんな感じがするか知りたいな。ちょっと怖いのかな。未知=怖いっていうのも思い込みっぽいけどな。それもそれで置いておこう。いまは、いじける自分を見たくなくてもがく自分と一緒に居る感じ。
それで甘い物を食べ、機嫌をとったり、目をそらしたり、気分転換したりね。でも居る。いじける自分といじける自分が嫌な自分。
へんだよなあ・・・。それが和多志?なのか?



自分が喜ぶことを探してみようと思って居る。なにが自分を・和多志を、喜ばせるのかな。自分について知らないことが多いなあ。和多志のどれが、何に、どういうふうに喜ぶのかな?。。。奥が深いねえ。

見つけたらかいてみようかな。

花は和多志のどこかをを嬉しくさせる一つ。