esukaransio’s blog

アウトプット練習しようと始めました

置いといて、どうしたいのか?

もやもや、ぐるぐる、それが体にも出てきたりすると、こうやってダラダラここに書いてひもといてゆく。おかげで、内側が凪いでくる感覚があって良い感じ。

日々の自分の在り方だとか、イライラポイントにいちいち感情が持って行かれて、振り返ったり、紐解きモード、内側探求モードにスイッチはいって、現実から自分を切り離しがちなんだなあとちょっと外側から見ている感じも出てきたり。

イライラするポイントを紐解いて自分に解説して、納得して、すっきりはする。
やめようっと思ったり、繰り返すなあって思ったり、うっっ・・・ってなったりもする。

そこで望みに目を向けたいって意識に向いてきて。

イライラにとらわれる瞬間に、イライラと自分を切り分ける感覚は少し生まれてくるときは増えた。
ジャッジも同時に出現するのも見る。ただ見る。
それから?どうする。


呼吸して、自分の体の重心を感じて、体のこわばりを感じて、で、
イライラする自分がいても良いから、そのすんだことはおいといて、さあ、本当の自分はどうしたいか。とすぐ聞いて、自分を正気に戻したい。


これまで振り返って散々紐解いた結果、被害者意識、加害者意識、善悪、対立、比較、がイライラの原因ってもう分かった。それしかないんだもん。
もう飽きて良くない?ていうか大分飽きた。色々やって良かった。飽きるためにやってたんだろうね。

限られている人間時間。そこにいる人も物も限られた形在る世界。
精一杯今に向き合って楽しく感じていきたい。

でもとか、どうせとか、まあそんなもんだとか、傷つくのが怖くて、色々やる。
きがついて、そのたびに、で、さあどうしたいの?って聞こう。

書いて実体を持たせて、私の世界に現れるように。記してみる。

自分の正当性や、じぶんのかわいそうな感じとか、特別感を味わいたいのか、本当にしたいことかいって尋ねてあげたいよなって思う。
えいえいオー


 

本音を無視してしまう癖発動。

写真が横になってしまう・・・。まあいいかあ。


小学生の頃から夢も持てず。妄想?想像?にばかり逃避を図っていた。
自信がなかったから。根拠のない自信さえ小学生の頃にはもうなくて、学生時代って本当に暗くて嫌なことが多くて思い出してもまだどよーんとできてしまう。
仕事し始めても苦しいこと、つらいことが90パーセントだったなあ。

なぜそうなったか今は分かる。嫌なことを避けようとか、嫌なことを避けたいあまりに嫌なことを探している感じだったから。
危ないものから逃げるには早期発見!みたいな。そりゃあ嫌なこと探しがうまくなっちゃう。

無意識?無自覚かな。

気をつけて楽しいこと、やりたいこと、めをむけないとやばい。


で、最近は自分の体のケアとか、バラバラの思考や感情をひもといてみるとかが好きだなあと感じている。
いろいろ自分の取り扱いを色々学んだり、ふとピンときたものを実践?試す、合うかな?合わないか?とか自分に確認することを通して自分の気持ちに向き合えるようになってきたなあと思う。続かないことも多いけど、続かないことにも理由があったりする。そこも確認したり。


イライラもモヤモヤも自分の状態をお知らせしてくれるものでしかない。
うまく理解できないことも多い。
自分で自分の気持ち確認するときは体を見て行くと少しわかりやすい。
感情がぐわーんと大きく動くとそれどころじゃないけど。呼吸が深くなったり、体が緩んだり、体が快適な感じになるときは◯ってかんじ。



今日は都会?へ買い物に行った。
途中から体が固くなって首、肩、頭痛してきた。
帰って緩めるように体をケアする。
楽になった。
そして寒かったなあとか、疲れたなあとか、じんわり見て行く。

短時間で用事を済ませる感じの買い物で楽しくなくて、慌ただしいランチで、行く店も妥協するしかないと言うマインドになってた。

一緒に行く人(夫)の買い物したい!ランチ食べたい!の気持ちに添いたいのと、子どもが学校から帰ってくる時間には帰宅しないと子どもが家には入れないし、お母さんがいなくて心配しちゃう!っていう気持ちが強く出て。時間ばかりが気になって、疲れてしまった。。
ギリギリで間に合うかなって時間に帰ったが、インターフォンの前で不安そうな子どもが待っていた。。
いつもより早く子どもが帰ってきてた。。


ゆっくり買い物なんて難しいんだ、子どもを寂しい思いさせてしまったらいけないのに、心配させてはいけないのに。わたしは大変。この大変ってのは、エゴ。病気っぽいな。

気を遣って、買い物に付き合ってあげる私。いい人を演じて、みせている?やだやだ。

すなおに今度からはゆっくり時間をとって行きたいですって言おう。


最初っからそうおもっていたんだよなあ。うっすら感じた。
時間大丈夫かな。と最初からうすうすかんじて不安だった。
嫌だった。
言えなくて、夫の気持ちにそおうとか、本音をいわずに見ないことにしたなあ。夫が不機嫌になるかなとか、いろいろかぶせたなあ。
いろいろごちゃごちゃなって、変な気を遣ったなあ。
夫の気持ちに添うほうがなんだか角が立たないとか思ったね。
息子を犠牲にした?
息子の痛い顔を見ていわなきゃって思うようにしたのかなあ。
もうしわけないなあ。息子に。
重いぞ私。
まあ失敗するよね。次に生かそう。
急な頭痛はお知らせだったのかも。すごいなあ。

感じたことをちゃんとキャッチしていこう。

楽しいこと、うれしいことに目を向ける。




ここ最近は、まあまあの体調。家事も苦にならない程度に元気。

子供会のことに意識が向きがちで、辞めたいというか、不毛感。

でも次の方へ交代するのでモヤモヤする。
まったく子どものために存在する意義が感じられない。保護者の負担は多くなるだけで、行事も慣例なかんじで。
予算も無関心だったけど、役員だから意識してみれば、行政などからの補助も税金や、自治会費が、慣例で保険屋さんやゴミ処理業者に繋がるルートが見えてくるような。補助金がいろんな企業に流れる仕組み?って身近にもあるンだなあとか感じてみたり。
違法でもないし、役員になる人たちはべつに悪くない。慣例は楽だ。

無駄をなくしたところで、子どものためになる活動にも地域活性に繋げるには大分時間を割かれ、嫌なことにぶつかる事が目に見えるし、交代していくものだから、なかなか問題解決はしないよなあ。
会議費として予算あるからなのかもだが、話し合いの時のお茶とかお菓子とかいらないマジで。それ、みんなのお金だし。慣例で良いのかなって思うけど。
でも言えねえ。

とかそういう感じに、なんか文句付けるような、否定・反発する方へ意識を持って行かれていることにうんざりする。

楽しい方へ目を向けたい。。ひねりだすと・・・。

余った金、私が決めて良いなら、子供会入会とか非加入とか関係なく不登校の子とか鍵っ子たちの居場所作りとか、不登校じゃなくとも子どもが自由に遊べたりいられる場作りに使ったら良いなあと思う。
でもそれを支える人として自分の成長が足りないよなあ。。。まわりにもうってつけと言える人もいないような。これでは、
子どものためになるかどうかはわかんないかあ。
保護者の負担が大きくならないように、エネルギーが循環するようにいろんな年代の人が心地よくいられる地域作りというか、環境になるようにしたいなあ。

とか、でもモヤモヤ。

ああ、、、これは、子どもを助けなきゃとか、弱い人をまもるとか、困ってる人助けなくてはみたいな妄想が肥大している。エゴというのかもね。
闇をみて騒ぐ気持ち・・・。

嵌っている。まんまと。
妄想ドラマにとらわれてる・・・。まさに。実体のないものを見て騒ぐ気持ち。

やりたいことはなんだ?妄想に耽る?それも暗いやつに。・・・狂ってるね。
楽しいことが良い!うれしいことが良い。妄想よりも実体験が良い。

今ある現実。生活のなかの楽しみを感じて生きること。
洗濯・掃除・料理・子どもとの会話・旦那さんとの会話?あるかな?・・・。まあまあ。

面白くないとかまずいとか、文句付けられるとか、色々あるけど。

それもまた実体験。体があってやれること。感じること。それを大事に生きるんだった。
書いて、すっきり仕切り直し。

良い天気だわ。

切ないねえ

高校三年間の弁当も終盤

お弁当。この日のは塩気がたりなかった。残念でしたとのお声が届きました。

 

お弁当も後数日かなあ。1月からは自由登校になるのかな?
手が離れていくなあ・・・。


手をかけさせてもらったのだろうな。
大変って思ったりしてたけど、かわいいって思える時間もいただいて、子どもがいたから、生きること、生活すると言うこと、命の働きのこととか、人との関わりとか、地球のこととか、環境のこととか、政治や教育とか、一個一個を選択するときに、考える事ができた。そして自分についても知ろうとすることができた。私が大事にしているものは何だろうって。


無意識に生きてきた前半を、人生も折り返し地点で、振り返っている感じがする。雑然としている感情や、記憶や、概念、価値観とかが今を作っている。
日々、勝手に思考する脳内を観察するとかをやっている。
わーーって感情が揺れるときは葛藤で苦しくなる事が多いけど、逃げなくて良くなった。
小さい感情の揺れに気づいて書く、勝手に思考する自分の声を聞くとそれですむようになってきた。感じること、見え方、をそのまま書くとその下に自分の思い込みや、価値観が出てきて自分が分かっていく。
漠然とした不安や、モヤモヤが減ってきた気がする。
ありの~ままの~自分・・・を自分で見れたらそれで良かった。ここまで40数年かかったあ。

何を大事にして過ごすかは自由。できてるできてないとか関係ない・・・とやっと思えるようになってきた。


日常を大切に愛おしく過ごすだけしかないと感じる今日この頃。
子どもが巣立つ時を感じるからこそ、日々の時間がいっそう大事に感じられてありがたい。寂しさも、今が楽しくて大事だからあるんだよね。

そう思うと、大変って思うときもいつだって幸せなんだなあと感じられてくる。感じられない瞬間もまだまだ多いけど。時間たつと変化して、愛ある出来事でしかなくなる。

形在る生活は切ないなあ。

切なさを大いに楽しみに生まれてきたんだろうな。形在るからこそ感じられるのが切なさだねえ。

冷える。そして、体は大事だ。

鮭弁当

寒いとか感じていないけれど、手足が冷えている。部屋はそんなに寒くないけど、湯たんぽがうれしい今日この頃。肩、首、背中が痛い。ダラダラ夜更かししたし、じーーっとしていることが多いからかも。だるくて眠い。

数日そんな調子で、体が重い。
台所や部屋がだんだん片付かない状態に。
洗濯物がたたむ、しまうが面倒だ。子供会の作業もすぐ終わることだけど、おっくう。
湯たんぽを抱いて、昼寝したい。

でも頑張らなきだめなんじゃないか・・・とか自分をうっすらと責める感じが生まれて、疲れてくる。頑張るべきだとかが生まれてくる。

逆に、勇気を出してちょっと寝ようかなあ思う。


そう書いているうちに体が軽くなってくる。


数分前に、わらじテーピングしたからかも・・・。


体が動ける状態にバランスをとるって大事だなと感じる。


天気が悪いから、、とか、だらだらするから体が重いんだ、とかいろいろな方向に責任転嫁、と、自分も他人も責め始めていたし、やるべきことをきちんと頑張らなくちゃという自動思考が勝手に動き出していて、どんどんしんどくなっていた。

今、
いろいろな思考は霧散した。自動思考に気がついたから止まったのもある。
肩の痛みがらくになって軽くなったら、なにも思考がなく洗濯やろうって思えている。
体が動ける状態にないとき自動思考で、自分を責めたりするのかも。だるくて何もやれないときは、寝る、体に意識をむけて暖めるとか、緩ませるといいというのは理にかなっていることを感じた。



推しが・・・・と泣き出す娘の話。

また娘。
ティーンで、思春期、多感で、世の中を行き詰まった暗い世界だと捉えているように私から見える彼女。
顔色悪く、表情が暗いし目も会わせない状態でただいま・・・。

どうしたんだろうかと、食事を準備しながら聞くと。
推しが引退すると。引退理由がちょっとネガティブな感じでらしい。ぽつぽつ話しながら、泣き出した。

悲しいよねえ。
悲しいときは悲しくて良い。
泣きたかったら我慢しなくて良い。
とぼんやり思う。

以前は、子どもの悲しい様子は、見ていて私が苦しくなって、気を紛らすように声かけたり、機嫌をとったり、気分転換させようとしたり、したなあ。
自分の無力さを嘆いたりもした。

悲しいことや逃げたくなるようなことを在るよなあと痛いよねえとそのまま置いておける感覚がいまはある。年を重ねて、様々な出来事を経ていく必然を感じるからだろうなあ。

ありのままで良いと周りをみていることが増えてきた。そう言う時間が増えると自分もほっとする。結局、ありのままでしかいられないから。

海辺のハマゴウ



推しとの別れ。

母は回想する・・・・
私にも同じような年代にあったなあ。

 

F1が好きで、レーサーがレース中に事故で・・・。ショックだったなあ。しばらく突然泣き出すような日常をおくったなあ。だからどうというわけじゃなくて、似たような体験在るなあっておもいだすなあって話したら、
よく翌日に学校行けたねって言われた。たしかに。
だけど、何があっても日常は続いていくんだよねえ。流されていただけかもしれないけど。とか話す。

 

 


別れは避けられないから、今したいことよーく見極めてかなえていけるといいなあ。
別れは、そういうことを思い出させてくれる。
後悔があっても、それはだれを責めることではなくて、つづく日常で自分の選択が変わっていくきっかけになるようにあるだけ。責める方が簡単で。

いままで散々やったなあ。後悔から逃げたいから。

結局は逃げられない。
こういうことがあってありがとうって言えるまで、いろいろな形でおんなじパターンを繰り返す。
人間ってうまく作られているようだ。

推しの引退でなく娘を見ると、
ファンを悲しませるような引退するなんて無責任なインフルエンサーだな。このやろう。娘を泣かせないでくれよって一瞬は感じたけど。その人にも人生があって、いろいろあるんだろう。
彼女にとって推しは支えで、暗い現実をともす少ない光の一つだったのだろう。
将来は暗い&行き詰まった現実世界を生きる彼女は、推しが消えたらどうしようとおびえている。
推しを複数にして防衛している節もある。

楽しくないことをすり込まれがちな学校、受験システムのなかで、自分が生きる世界は暗く行き詰まっている世の中だと見事に思わされている感じがする。
自分も似たような感じだった。でも本当かな?って最近は思う。
娘は、自分の生きる楽しみをバーチャルな世界とのつながりや、推しを見守ることにしている様子。学生って意外に時間がない。手軽なスマホに頼るよね。

大衆操作の観点で、アイドルやインフルエンサーをつかって、成長中で多感な若者の心がエネルギーバンパイアたちや、経済の奴隷たちに、操作されませんようにとか願う気持ちもないではない。
皆が自分の心の美しさや、感じる豊かさを大切にできますようにと母は思う。
だがなるようにしかならない。

でも望みはあっていい。呪いにしない程度に。

とりとめがなさ過ぎる。

 

人はまっさらな状態で生まれてくる?

 


娘が
人はまっさらな状態で生まれてくる。
感じ方も教育や過去の経験から作られると言う説が在って、私はそれの考え方に賛成なんだよね。
と、食卓で語り出した。
今日は図書館で心理学の用語解説を読んだとか。
整理したいから話したいのだと。いろいろ語ってくれた。

けどむずかしかったあ。
哲学とか、思考実験とかそう言う話が好きな娘。

聞いて色々考えがめぐって悶々とした。
書いてみる。

まっさらで生まれてきたなら、産道を通る赤ちゃんの動きとか、胎児の運動とか、ぬくもりに安心したり、冷たさを嫌がったり、寝返り、はいはい、教えてないけど、やるのよ、大体。
これは経験からじゃないような。
本能?反射?それはどっからきた?
食べ物の好き嫌いも経験って言える???まあ体が違うから、感じ方も違うのかも?

自分も人間なのに不思議がいっぱい。

 

感覚的で、説明はできないけど、私は、生まれ持った個性があると私は思うけれど。
でも考えてくと分からなくなる。

まっさらで生まれくるとしたって、生まれ持った個性があるとしても、どっからが、その人の人生の始まりなのかも考えていくと。生まれた瞬間から?命が宿る瞬間から?
えーと?
誕生の前は胎児で、受精卵で、精子卵子で、細胞の一つで、先祖から繋がって・・・人間の細胞は寿命があり、日々、入れ替わっていく、食事をして、その要素を取り入れて、食物は土から、微生物や日の光や、地球を巡る水を取り込んで構成されていて・・・・日の光は太陽という惑星で、それはどこにある・・

過去も未来もなくなって地球とも宇宙ともすべてとも繋がっているのではと考えてしまう。認知もできないすべてと繋がっているような気もしてきたりする。
これは大人になって情報があるからか。実感はない。

妊娠出産をしたから、その経験から目にするものエコーとか?出産風景とか体感覚とかも影響してるだろう。

日々いろーんなどうでも良いことに振り回って、自然から離れて、大事なことを感じないようになってるかもな。
大事なことって何だ?くだらないと思うことこそ大事だったり。

違いに目を向けて、個と個で関係性をいろいろ演じつつ、実は繋がっているすべてが。

地球生活。体のある生活。時間のある生活。違いを感じて刺激的。違いがあるから感じる。

なんか素敵。
どれもどこかで聞いた情報なんだけど、そうだなあって思う私がいる。
そう言う情報をキャッチして、共感する私という個性をもって今いるんだな。

娘の話のおかげで、色々考えたなあ。
みずみずしい、娘の感性、好奇心。それは経験なのか?個性なのか?
どっちでも良い。とっても素敵だと思う。