esukaransio’s blog

アウトプット練習しようと始めました

自分の機嫌をとるとは・・・?

ありのままで、大丈夫。

ひなたぼっこいいね~


そう思えないときもあるし、それもありのままで、自分の機嫌がとれない瞬間もあって、残念でも大丈夫。 と自分をなだめて、 そこからまた幸せを感じる事を改めてやる。振り子のようにあっち行きこっちいき。

痛いな~~~逃げたいな~~って意識から焦って変なことすることも多いけども。結局はどこにも逃げられてない笑。

私は、家族の機嫌をとって自分が被害者みたいな意識になることがある。
サービス疲れみたいな。
何をやっても相手が機嫌悪いままだと腹が立ってきて相手を責め始めて、全然心地よくない感じになる。 ははは。

どっちにせよそのあと、自分の機嫌が悪くなる。 またやってしまった・・・。ってなることに最近気がつき始めて。

子どもに苛ついたり、食欲に走ったり、飲酒したり、自分の機嫌を直すのに結構時間がかかる。

書きながら、 機嫌を直さねば!みたいな感覚もじつは要らないのかもなあ。とも思う。
やけ食いとかって結局機嫌直らないもんなあ。 まあやるよね。

そもそも自分が機嫌が良くないから世界が機嫌悪く見えるだけかな?とかもよぎる。
夫や子どもが、親が、悲しんでる、疲れて当たり散らす、不機嫌な様子を見ると (主観で私の見方の癖かもと・・・後で振り返るとそう思えるけど、最中はなかなか気づけないからやってしまう。) そのまま見てられないような感じで。
幼少の時からの癖かもな。
だからそうならないように、ずっと無意識に相手の意に沿うような行動をしてた?
これって自分の機嫌が悪くなるし、結局周りとの関係性も悪くなるし、ダメだしもう辞めたいって思った。

周りの人の機嫌に左右されそうになったときに、まずは気がついて自分の気持ちに正直に行動したいなと思う。
自動化して癖で行動する前にどう感じてるか、どうしたいのか自分の気持ちにきく!
長年の癖なので、ここに書いて癖を少しづつでも脱いでいきたい!

自分の機嫌は自分でとるって言うけど、機嫌悪いとき、機嫌良くしなくちゃ!もなんか変だし、機嫌の悪さも逃げずに感じて観るしかないのかも。そして湧いてくる物をみる。
人に当たり散らすのはしない。
機嫌のわるさも許せたらいいのだろうな。機嫌が悪いって、感じているって事。
ちゃんと観ていくしかない。嫌な気分になったな。嫌いだな。
以上。
切り替えなきゃとか、違う方をみなきゃとか、これってコントロールで、自己否定も含んでるような。
悲しい。悔しい。感じきっていいんだよ。痛くたって大丈夫。風や波のように通り過ぎていく物だから。
それからどうしたい?って自分を信頼して湧くのを待ってみたい。

また違う世界が見えそうだ。

体の方を整える事も大事だな。機嫌をとるっててっとり早いのは体の緊張やこわばりを観てみること。感じてみること、意識のありようとかも含めて。ゆっくり呼吸して、感じていく。
そういうことを気がつくためのいろいろが起きているのかも。

感謝。
 

凪いでいる?色々モヤモヤするけど・・・。

なーんにも書きたいことも、葛藤もないし凪いでるよなー最近・・・・。と思ったけど。でもそう思ったら、いや、モヤモヤはあるなあと感じる。

最近は子どもが遠方へ進学。準備で色々ある。
手を離す時期なんだろうけど、色々やってしまう。
そう。
やってしまう・・・。やろうとしてというか、やりたくてやってるような気がするけど、底の方ににあるのは不安だったり。見ないようにしてる感じもある。


子が遠方で困らないように・・・。
一人暮らし、遠方で大丈夫かな?不安、心配?もよぎる。健康に暮らしを保てるかとか、何にもできないししようとしない感じの子ども・・・という私の思い込みもあるような。

生活を新しく始めるって、一新とか、スタートのワクワクも楽しみもあって。

勝手に台所用具とか買ってしまったり。
制服から私服になるからと、子どもの服買いに行ったり。(これは一緒に行くし、子供も乗り気)引っ越し準備は何もしないし、家事もしない子・・・・。
だいじょうぶかなあ。
モヤモヤするなあ。
って毎日過ごしてた。無意識だったけど。

一方、自分も一人暮らし始めるとき親がぜーんぶしてくれてたなあとか。
当時は、分からなすぎて親がサクサク準備している姿を人ごとのように眺めていた自分だったなと、初めて思い返したりした。
お金かかるなあとか、申し訳ない思いとか、何をしたら良いのか分からない感じで、何もしてないけど買い物について行って疲労して、体調が悪くなったりしたのを思い出す。
サクサク準備してた親の姿を自分に置き換えると、心配で必死だったんだろうなとか。ありがたいなとか。改めて思ったりしている。

結局快適にたのしく暮らしてほしいなという願いがある。そのために!!なにしたらいい??
ってうっすらと焦っている。家族の在り方が変わる。住む場所が、メンバーが変わる。お金も今まで未知の感覚でかかってくる。
初めての段階へ突入するんだなという緊張。
お金たりるかなとか、仕事のしすぎでギスギスならないかなとか、体壊さないかなとか、色々妄想しているんだなあ。私。

そこを見ないようにしてるなあ。お金の不安。
お金について、節約とか、不安を感じながらとかしたくないのだ。
そうか。
息を吐きながら、そうかあときく。
それに対して、いまやることは、ていねいに自分と向き合うだけ。
不安だったのね。未知のことが起こる予感?妄想?があって。
起こったことをああそうかって、受け入れる。
書いてて自分に起こっていたことを自覚。

パソコン作業して夜更かししたり、家事やる気が起きなくて、YouTubeぼーっと見続けてたり。山盛りの洗濯物にしたり。
不安から目をそらすとそうなりがちなパターンを持つ私。
不安を見るちゃんと見る。
見たら終わるから大丈夫。
不安なんだ。

そう。息を吐いて呼吸して。今の体の状態を感じて。
力を緩めて。
不安だったんだなあ。と見つめて受け入れると終わる。
不安が暴れない。

で今したいことに目を向けられる。
掃除したい。
洗濯したい。
子どもの炊飯器買いに行きたい。
ってなる。

わあ。いいかんじかも。モヤモヤしてる自分を体を感じつつ、受け入れるって良い感じ。だいじだわ。




自分にやさしくってこういうかんじかな。

モヤモヤのない日々を過ごしていた。嫌なことは嫌だなあ、とか、イライラすることもいらいらするなあとか自分の中で緩やかに受け止めていて、飛び抜けて感動することもなく。
怠惰な、堕落したような自分の生活を見て、否定するような感覚はあるけど、同時にぼんやりできる豊かさを感じていたり。丁寧に自分の中を見ながら生活していた。
やりたいことに邁進したいけど、やりたいことはよく分からない。
でも目の前のことを自分の感覚を確認しながら動くことが増えている。自分に優しくってこういうことかもなあって思っている。

素敵な喫茶店でいただいたお茶



最近の感情爆発。

息子に死角から急に大声で脅かされ、わーって叫んで驚いて、こみ上げる怒り。自分でも抑えきれない怒りにびっくりしていた。ムカムカして収まらない。それを押さえつけないように自然としながら、いーーーーーってベッドでのたうって。
息子に謝られても全くおさまらない。謝る態度も軽いし、息子はそんなに怒ることじゃないと思ってるし、いつもならこんなに怒らないはずなのになってかんじ。
息子にこっちに来ないでって言ってみたりして、息子はいじけてたり。

だんだん膨らんでいった怒りは落ち着いてきて、あれ?なんでこんなに怒るのかな?と。ああでもこの怒りは貯めてたものもでてる。
そして、今起きたことは、そんなに怒らなくて良いことだった。
でもここで、出せて感じてみて良かった。となって、すーーーっと消えていった。
脅かされただけでこんなに怒るなんて・・・・って変だよなあって笑える感じになった。息子にもちっちゃいことで、あり得ないくらい怒ってごめんなさい、びっくりしたよね。怒らしてくれてありがとうって。言いました。

感情って出たら感じるしかないってこういうことかあ。って思えた出来事。ありがたい。


やってきたこと、やめること。

いろんな出来事に感情が動くとき、良い感じの時も悪いと感じるときも、今まで意味付け、関連を付けて、分かったような気持ちになることをしていたことに気がついてきた。
子どもが病気になると、自分も苦しい。
あのときあれを食べたから、私が八つ当たりしてストレスかけたから、とか思ったり、そしてさらに落ち込んだり、自分を責めて体調を崩したり。
皮膚状態が悪化したら、小麦製品や砂糖の多いものを取り過ぎた、ストレスがとか、過去のあの記憶が・・・とかやっている。

特に嫌だと感じることについては、どうしてそういうことが起こったのか、分かりたい。
それは次同じ事が起きないように対策をしたいという思い込み、癖なんだな。
今起きていることを拒否して抵抗しているんだなと気がついた。
嫌だと感じきる前に思考に逃げて、なぜどうしてと考えて現実逃避する。
気がつくと常時やっている。
過去にとらわれている。

嵐(のような感情を)目をつぶって念仏唱えて、痛くないとか唱えて、感じないふりをしたり、分離させて捨てるように念じているような感じ。

で、どうしたいの?が出てこない。

色々本で読んだり、話聞いたりしたけど、いままでとは全く違うかんじで、きこえてくる。
で、どうしたいのか?
自分に望みを聞く。ということがいかにできてなかったか、意味不明だったか。

なんでどうしてはしても良いけど、重要じゃなかった。拒否抵抗であった。
それに気がつくと剥がれ落ちたなにかがある。そのうえで、
で、どうしたい?これを自分にむけると少々混乱する感じはあるけど、嬉しい感じがする。
過去を責めるエネルギーが(で、どうしたい?のなかに)今まで乗ってたような気がする。それに気がつかなかった。
だから、で、どうしたいの?って自分に問うとき、冷たくて突き放されているような感覚さえ載っている言葉に感じていた(しらんかった)。
そんな状態の言葉には、そんなことわからない!とか、だだっこのような感情しかわかなかったんだなあ。だから、どうしたい?に関心がなかった。

あらまた意味づけしてる?
いや、問題から逃げるために問うてはいないから違うかも。気がついただけ。

痛みや悲しみ怒りがわく。
恐怖、緊張、体の状態の変化を感じる。観察し出す前に。
なんで?どうして?思考が暴走し出す。
過去の出来事が勝手に引き出されて糸で結ばれて、似ている感覚を感じた過去の情景が脳内で再生される。
これが通常パターン。

そこを切り離して、このパターンが癖だと見たら、

なんでどうして?の問いが起きた課程を横目に見つつ、スイッチが切れるなら切って。
切れないなら横目で見ながら。

で、どうしたい?という問いをしてあげたい。
今にいることに、過去に引っ張られる思考を反対方向に舵を切って行く練習をしたいと思った。

今は今にしかないんだよ。(by.SuperBeaver)


今に生きないでどこに生きるんだ自分。どこに行ってるんだ自分。今に生きたい。
今を生きるって映画あったな。

自分を育てる感覚がわいている。
愛おしいかも?いいぞ。いいぞ。よくやってるぞ。
体のケアもさとう式リンパケアをここちよくセルフケアとして続くようになっている。

心地よさを感じる事が大事だなあとおもう。微細だったりするから意識が向かないと感じないことが多い。きつかったり、つらかったりすることがあるおかげで、体や自分の内面に意識が向くことも多い。すべてが大切なこと。チャンスだらけの毎日。チャンスしかない。今そう言う場所に立っているようだ。またどこかへいくし、また違うことを感じることもあるし、何を感じるのかただ見て、どうしたいかな?と希望を叶えて自分を経験したいな。

怒りを手放せない・・・なんで?

年末年始、体調が低調で、どよーんとしていた。
実家に帰るのもなんか、おっくうなのに、言えない。
そんな状態だからか、いろいろ勃発。
夫が怒りん坊になり、それを最初はそんなことで怒るなんて変なの、ほっといたらそのうち収まるでしょう、と置いといた。
しばらくすると、いつも通りの子どもにむかって夫が、
子どもに感情的に当たっている様子が展開。

(ちょっといつもより大声、&子どもの楽しみを奪うようなことを言う。◯◯なしにするよ!みたいな)

理不尽な状況(子どもからしたら理不尽に感じるような・・・私がそう見た。)に急激に怒りがわき上がる。
なのにそこで何も言わないことにした。

怒っている人に怒るのは無意味だと諭すようにしている友人をみて、感動したことがあった。で、諭すような精神状態でなかったから黙った。
火に油を注いで怒りがヒートアップすることは嫌だから黙ろうと思った。

そしたら。その場面は終わり、実家に行き、みんな楽しく?わからんけど。過ごしているのに、あのときの夫が気に入らないとずーーーーっと怒りを握りしめている自分をどうにもできない状態で年末年始を過ごした。
表面上はつつがなくしているつもりだけど、むかついている気持ちがそばにいる感覚。変な感じ。
自分の感情なの?どこにも怒る状況は今にないのに、過去の感情を握ってその握りこぶしを眺めて不愉快を感じている私。
手放せない自分を感じた。
怒り好き。
正当化、善悪、被害者加害者、比較、ジャッジしているなあって感覚は在る。それが不要だと分かるし、またやっているとよぎっているのに、手放せない体験をした。

居心地の悪い怒りを悪いものとしているんだなあ。遠ざけたくなるから、わいてきた怒りを押し殺す。怒りをぶちまけると、ろくな事はない。みたいなね。
もし、私に怒りがわいた時に、大人ぶったりせずに怒ってたら、良かったのだろうと思う。とかモヤモヤばかりの年末年始。

ちょっと分析。
夫は何で怒ったのかな?
夫は仕事に行って帰ったらすんでいると思ってた、実家に帰る準備がすんでなかった。私に、準備を期待してたのだろう。
私もそれを察して、できてなかったので、罪悪感を持った。
急がなくてもいいやと思っていた。お互いの事前の話し合いがなかったので、出発時間も決めてない状態で。
そこへ子どもがいじけモードで何か言ってきて夫はそこに怒りを発散。

それは間違ってる怒りのむけ方だと私も怒り出す。黙ったまま。

子どもが、二人のモヤモヤを、怒りとして発散させてくれたと言うことになるのかなあ。

あああ。



帰省したくないって言えば良かったんだなあ。


帰省するって決めたとしながら、
息子が帰りたがったんだよなあ。

 

祖父母がさみしがったんだよなあ。とか。

人のせいにしたままで行動してた。

私は家にいたかった。だらだら過ごしたかった。
そんなこと言えない、しかたないなってやったんだな。
で、もやもや年末年始を作り出した。

なんか自分の望みと違うから怒っていたのね。
違うことに怒りをむけて発散してしまったのね。
モヤモヤしたまま行動するってこういうことになるのかあ。

 


そういうこともある。
そう言う経験をしたかったのだろうなあ。

ずーーーっとうっすら怒ってたけど夫にじゃなくて、行きたくないけど、しょうがないで行動した自分に怒っていたのかな。
行きたくないけど、子どもが喜ぶなら行くと決めて、行くぞっていう方向で行動したいね。決めて行動しなかった。
誰かのせいのままの行動は気持ち悪いんだな。

決めることの大事さにきがつくための出来事が起こったのか。
きめるって、しょうがない・・・ってやる事じゃないということに気がつけた。






 

ペトロの話

クリスマスにちなんで、イエスのお話をYouTubeでたまたま見て、思ったことがあり。

エスが十字架にかけられる前、弟子のペトロさんに、悲しい顔で、あなたは私を裏切るだろうと話す。驚き否定するペトロに、イエスは、明日鶏が三回鳴く前にあなたは3回イエスなんて知らないと言うだろうと、話した。
そしてローマ兵がイエスを捕まえ、十字架にかけるために連れ去るとき、近くにて、イエスに罵声や、石をなげていた人々の一人が、ペトロをさして、あの人もイエスと一緒にいるところを見た、とローマ兵に訴える。するとペトロはいいえ私はイエスなんて知らないと言う。また違う人が、ペトロをさしてあいつもイエスの仲間だと訴える。するとまたペトロはイエスなんて知らないと答える。
そうやって結局3回イエスを知らないと言い、イエスだけが十字架にかけられる。
そして鶏が3回鳴いた。というような話を聞いた。

それを私がペトロならうううーーーんイエスは私の師ですっていえるかなああ。いや、怖くてできないような・・・。という話を夫にした。
あなたならどう?って。

そしたら、なんと。

そもそも自分はペトロにはならない。石を投げ、イエスを糾弾する方の人だろうと。
インチキ宗教家!とか、うさんくさいとか。いって悪態をつくだろうと。イエスはうさんくさい。

へええ。そう言う捉え方ができるんだあ。衝撃を受けた。

そうかあ。イエスに石を投げた人の方が多数だったからそう言う事象が起きたんだろうし、石を投げた側の人のほうが一般的だったのかなあ。

そっちに自分を投影できるってすごいなあって思った。
その可能性に全く気がつかなかったから衝撃を受けた。

私、無意識に
いい人って見える方になんか味方したいような、いじめれてる感じの人はかわいそうだし、味方してあげたいみたいな。
エスって愛の人なんでしょう。そっちが正しいに決まってるような捉え方しか私にはなかったなあって思った。

夫は、真理や愛を説いたりする人には嫌悪感や、怪しいとか、疑って見る、奇跡の現象についても水をワインに替えたり、パン出したりとか?もうさんくさいとしか見ないらしい。
拒否、信じないらしい。

私、すごいーーーってすぐ信じちゃう。

いやあ。
おかげで、私の中に、イエスの味方的な意識になってて人に石投げるやつって信じられない!とか、人間って愚かだって、怒りも出てきたし、石投げる側に自分がいる発想ができなかったし、石投げる人を見下す感じとか、評価、下に見る感じがあるなと気がついた。
これも石投げてるやつの思考と変わらない。自分の価値観に合わないやつはダメ!無意識に排除したい。みたいな感じがあるな。

それぞれの状況や考え方、価値観で全く捉え方って違うから、事象に正しい間違いはない。違う考えだからと人を評価する、糾弾するっていうのは変な事だなあって思えた。無意識にやってるって、恐ろしいなって思う。違うのが当たり前で、一方的に排除したりするのは変なことだぞって意識を持たないとなあ。
皆が違うという、前提にしっかり立たないと、癖で、良い悪い、正しい間違い、敵味方とか対立してしまうんだなあ。

 


違いを気づかせてもらうって素敵だなあ。

ちょっと前なら、違いがストレスでしかなかったけど。わかり合えない!みたいに。
今は、違うっ!って驚いて、はっとして、じゃあどうする?そう言う見方もあるのかあ。なるほどって。違うんだなあって理解できる。
違いをそのまま置いておける事が増えた気がする。
できないときも多いけし、違いに感情が暴れる日もある。でも気がついていくことで心が凪ぐのが早くなった。

もし、違いを良しとしても、夫が誰かに何をされたわけでもないのに、違う意見のやつに石を投げたりするなら止めるけど。あはは。



全く違った配役に自分を重ねる主人と私。

びっくりした食卓での会話でした。


病気のメリットをちゃんと見ようと思った。

病気について。

体の不調、持病がある。
慢性化しているそれらを見ていく。
それによるメリットがあるとしたら何か。


実は、過去何かの拍子に、自分が嫌いということを思ってしまうことが起きた。ショックと罪悪感をいだく。
その自分が嫌いな状態が恐怖で耐えられず、逃げたい。
病気という状態になって、それがあるから自分が嫌いだって事にして、自己否定感を自己ではなく病気の症状にしていた。
ちょっとこんがらがった表現になるけど。

病気の自分を作って、病気の自分が嫌いと言うことにしている。
あきらめたり、嫌いになっても仕方ないと思えて、変化しなくてもしかたないとか、自分が嫌いなことを直視しないでいられる。これが病気のメリット。
悲劇のヒロインぽいし、いろいろ浸れるのもメリット。

過去のパターンでずーっと病気の状態を作り上げているかんじ。
病気である動機付けに気がついたのは、病気の状態をどうにかしたいという気持ちがあるからなんだけど、病気でいるメリットを自分が選んでいるという状態を見ることになった。
じつは自分が望んでいるから病気の状態を見ている。



嫌いだって思った自分は、過去の瞬間にも等しい一部なのに。
自分が嫌いだという思考が生じたときあまりにショックだったんだろう。
その衝撃を握りしめてしまい(無意識だろう)、見ないように隠そうとすると余計に在ることを見ないように意識が自動的に働くし、繰り返しているんだろう。
見ないようにするって気になってしょうがないって事だもんなあ、疲れるよね。



自分の知らなかった一部分を見たときにそこをそのとき持っていた価値基準で否定的に捉えてしまったんだねえ。一部分が嫌だなってそのとき感じただけ。恐怖でそれを直視しないことにしたので、一部分が拡大して見えているかんじかな。
幻を意識し続ける恐怖。端から見るとコント。


病気の状態を見るときに湧き上がる感情とか、思考は抑圧する事が多い。
治らない、不満、怒り、悲しみ、不安、恐怖、嫌だ、不快だ、消したい、切り取りたい、などなどでてくるが、同時にそんなこと思っちゃダメだ、治るものも治らなくなる!いやだ、ダメだ。という感じになる。
どうせ治らない。なるようにしかならないという諦めも出てくる。
病気にそう思ってるようで、実は自分にそう思っていたんだよね。

癖で、自分の感じるものにダメ、とか、不安をかぶせて抑圧しようと働く思考の方が優位に立ちがちな自分がいる。
今回はじっと耐えて、ただ見て、抑圧する側にも、抑圧される側にも引っ張られそうになっても真ん中に戻るような感覚で自分にお問い合わせ。

自分の中に生じたもの湧いたもの、否定する無意味さ、否定するものは全部外側の価値観であること、あるものは在ることを静かに見たいなと思った。
過去の私が嫌った私の一部は否定してもそこにあった。
見たことないお花のようなもので見慣れなかったけど、変な価値観で汚いものとして処理しただけだった。
本当に嫌いなのかどうかは体の反応で分かる。
思い返すと、体の反応的にも嫌いじゃないから、価値基準から逸脱するので恐怖だったのだろう。そういうのを好きな自分がダメみたいな。
人と比べたり、大人の言うへんな社交辞令を真に受けた子ども時代だった。
見直していないままなので、変な評価基準が私の中で起動していた。
ああそうだったのね。ってかんじ。
嫌いって思ったことも、嫌って思ったことも、子どもだったんですから、しょうがないじゃない。持ってた価値基準がなんなのかさえ分からなかったのだから。
持っていた価値基準はいらないものだった。がらくただった。
手放してOK。
嫌って思って苦しかったなあ。自分を嫌いって思うのしんどかったなあ。


長いこと幻影を飼って、それを見てはいけないものと箱に詰め、奧にしまって、病気でラッピングして見えなくしておいた。
怖いものが出てくると思ったけど、開けてみたら幻だから、箱は空だった。悪夢から覚めたような。
みたいなお話になるかな。